KAYOLOG

野口整体的子育て・仕事・日常のこと

父の記録13~左目から流れた涙~

一年近く放置してたので日にちがあいまいだけど手帳を見ながら最後まで書いていきます。

2/10
グループ通話で兄と母と三人で今後父の治療を続けるかどうかを話し合う。
抗生剤で感染症の治療は続けようということになった。

2/12
病院に電話して15日?に面会へ行くと伝える。
10日に聞いた状況より心臓は強く打ってきていて状態は良くなってるとのこと。
抗生剤が効いたみたい。
私も1か月近い緊張状態が続いていたので血尿がでる→翌日内科で薬をもらう💦

2/13
兄が実家に帰ってきてくれた。

2/15
兄と母と三人で面会へ。
父の目は開いていて、低酸素脳症になっていて意識はないと先生に言われた。
家族三人で病室でお父さんに声をかけた時、左目から涙がこぼれた。
先生や看護師さんは意識はない、と言っていたけど、私は会ったんじゃないかと思う。
身体が思うように動かなくて、声も出せなくてつらかったんじゃないかな。

2/16
病院から電話。
血圧が下がってきていて、下血(お尻からの出血)が止まらない、とのこと。

2/17 AM2:35 実家の母より電話。
お父さんの血圧が下がってきていてもう危ない、とのこと。
母と二人で病院へ向かった。
病室に入った直後くらいで、心拍数0になっていたようで、機械のピッピという音が響いていた。
私はまだ生きてると思っていたけど、看護師さんに言われて初めて亡くなったと理解した。

3:20分 死亡確認

病室の入り口真上くらいがとても気になって見上げた。
何も見えなかったけど、父が見下ろして「死んでしもうたー」って驚いてる気がしてならなかった。

母は割と冷静で、それから遺体を運ぶ車の手続き、車が来るのを待って実家へ、少しだけ寝て兄へ連絡。
朝早くから葬儀屋との打ち合わせ、各所連絡。
悲しむ暇もないほど目まぐるしくやらなくちゃいけないことを母と一緒にこなした。
近くに父の姉、つまり伯母がいたのですぐに駆け付けてくれて一緒に色々動いてくれた。

兄は夕方17時頃こっちに帰ってきてくれた。ほっとした。
やはり兄がいると母も私も心強かった。

2/19 お通夜
2/20 告別式

本当にあっという間だった。

父の記録12 意識はどこに?

2/8

この日まで

病院からの連絡はなかった。

連絡がない時は

これまでのことから

回復しているんじゃないか

勝手にそう思ってた。

ただそう思いたかったのかもしれない

18:00

先生から病状報告の電話が入る。

連絡は2点

一つは肺炎が悪くなっていること

もう一つは

意識が戻らないことだった

鎮静剤投与をやめたら

大体2〜3日で

意識は戻ってくるらしい。

戻ってこないということは

脳に影響があるのかも。

そうゆうことを話してた。

2/10 17:00

今後の治療方針について

話したいと連絡があり

母と病院へいく。

今、父の状態は

急性期を脱してきている。

心臓は入院時より

しっかり動いてきていて

肺炎も少し良くなってきてる

ただ

たくさんの管に繋がれたことで

感染症の心配があるとのこと。

菌をやっつける

抗生剤を投与しているので

効き目があるかどうかを

数日見ていく。とのこと。

それに加えて

お尻からの出血が止まらない。

おそらくお腹か腸あたりで

出血が起こってるかもしれない。

大量に輸血を行っていたので

むくみがひどく

エコーでは原因がわからなかった。

造影剤を使って

検査をする方法はあるけど

原因がはっきりわかるかどうかは

検査をしてみないとわからない

造影剤検査は

検査を行うだけで

腎臓に負担がかかり

今後一生、人工透析になるかもしれない。

それでも検査を行いますか?

このまま意識が戻らず

次また心肺停止状態に陥った時

心臓と体にものすごく負担の大きい

心臓マッサージをするのかどうかも

決めて欲しいと言われた。

一気にいろんなことを

言われて

頭が混乱する。

意識が戻る可能性は

あるんじゃないの?

この数日

ネットで色々情報を集めた。

3週間後に意識が戻った、とか

1ヶ月後に戻った、とか

いろんな人がいた。

鎮静剤をやめたら

数日で意識が戻るはずだと

先生は言っていた。

でもいろんな人がいるじゃない。

お父さんも

ちょっと長いこと寝てるだけなんじゃないの?

「意識が戻る可能性はあるんですよね?」 聞いてみた。

「・・・投与をやめて

これだけ起きないということは

低酸素脳症の影響があると

思います。

これだけ戻らないと

難しいです。」

影響があるだけで

起きるかもしれないじゃないか。

お父さんの意識は

眠ってるだけかもしれないのに。

脳に影響があるって

どうゆうことなんだろう。

お父さんの意識は

どこに行ったんだろう

お父さんの意識がないってことは

お父さんは死んだってことなのかな。

体は

ただ心臓が動いてるだけの

魂が入ってただけの

入れ物ってこと?

でも体は生きてるから

魂はある?

そもそも魂ってなんだっけ?

お父さんの意識は

魂じゃないんだっけ?

よくわからない

まとまらないことが

頭を駆け巡る。

先生達の話にすぐ

答えは出せなかった。

出したくなかった。

先生との話の後

面会させてもらった。

目が開いてる。

起きてるのかと思ったけど

先生曰く

意識がある状態の

呼吸の数値じゃないらしい。

目は開いてるけど

手をかざしても全く反応がない。

黒目の色が薄いように見えた。

首から繋がれた管がうっとしく

苦しそうな表情で

嫌がるような動きがあった。

これでも本当に意識がないんだろうか。

目が開いてる時間が長いので

下瞼が充血してた。

こちらの声に反応しない。

父だけど父じゃないような。

変な感じ。

母と病院を出た後

兄に電話した。

「ビデオ通話で顔見ながら

3人で話をしよう」

兄が指定する時間に

母と2人で

兄からの電話を待った。

こんなこと

話し合いたくなんてない。

でも話し合わないといけない。

お父さんが必死で頑張ってる。

一番しんどいのはお父さんだから。

父の記録11 ひとすじの光

2/2 朝

担当看護師さんから聞いていた

2度使用すると

救命率は極端に下がる

その人工心肺(エクモ)を

本日取り外します、と

電話があった。

一度目は

カテーテル手術後の

合併症 致死性不整脈の時。

二度目は

致死性不整脈から1週間

意識回復後の

心臓破裂→緊急手術後の時。

肺炎も回復してないから

父は

心臓と肺の両方を

サポートしていた。

心臓が術後

順調に回復していたことから

肺のみのサポートに切り替える

そのリスクとして

取り外した影響で

大動脈解離が再発すれば

もう打つ手がなくなる

同じような症例を探してはいるが

ここまで合併症が重なって

生きている例というのは

見当たらない

今、生きていること自体が奇跡

できる限りのことをやっていく

また奇跡が起きることを祈るしかない

そうゆう理由だったと思う。

この日の夜

奇跡を祈って

母と兄と太郎と4人で

恵方巻きを食べた

2/4 16:00

病状と今後の治療について

病院に呼ばれる。

この日、兄が静岡に戻るので

母と兄と3人で病院へ向かった。

先生が話す

父の現状は

・心臓・血圧ともに安定

・肺炎が良くならないので今後は肺を中心にサポートしていく

・大動脈解離があった側の腎臓への影響がまだ分からない

・2回心臓停止に陥ってるため、脳への影響がまだ分からない →低酸素脳症で意識が回復できるか分からない=植物状態の可能性

2/5 17:00

病院からの電話。

人工心肺(エクモ)と

呼吸器を全て取り外した。

今はお父さん自身の

心臓と肺だけで眠ってる状態。

鎮静剤投与をやめたので

今後、意識の回復を待つ

そんな内容だった。

諦めていた母に伝えると

笑顔が戻った。

父の記録⑩父と母

父と母はお見合い結婚だった

父は5人キョウダイ(3姉1妹)の

末っ子長男。

母は6人キョウダイの (兄2人姉1人妹2人)

次女(4番目)。

2人とも団塊世代のど真ん中。

女ばかりのキョウダイの中

育った父は

大人しく従順な性格で

自由にやりたいことを

やりたいように生きている母のそばで

自分の好きなことを

好きな仕事をコツコツと続ける

真面目で穏やかな人。

娘の私から見ても

夫婦だけど

どこか姉と弟のような関係の2人。

夫婦仲は良く

休みの日には

2人で出かけたり

友達とみんなで出かけたりしていた。

1/29

この日は獅子座の満月。

もし父が逝くなら、この日かもしれない

と、勝手に思ってた。 (縁起でもないけど💦)

なので私は前の日に

母が父と面会しなかったことが

気がかりだった。

母は、

(この状態の父を見るのは) もう辛い

そう言った。

だけど

もし急変して

間に合わなかったら

母は後悔するんじゃないか

私はそんなふうに思ってた。

病院からの電話はない。

夕方になって

「やっぱり会いに行こう」

と声をかけた

母も、同じ気持ちだったのか

承諾してくれた。

母と兄と私で病院へ向かった。

こんなご時世の中

すぐに面会できるのは

本当にありがたい。

それぐらい

父の状態は

危ない所にいるわけだけど

いつ連絡しても

快く対応して下さる

スタッフの皆さんには

感謝しかない。

3人でICUに入るのはこれで2回目。

私と兄は早々に部屋を出て

父と母を2人にした。

「もう、頑張らんでええよ」

部屋を出る時

母が父に話しかけていた。

どんな思いで

その言葉を口にしたかと思うと

胸が苦しかった。

涙が溢れそうになったけど

堪えた。

しばらくして部屋から出てきた母は

涙目だったけど

覚悟を決めた顔をしていた。

今、広いあの家に

母を1人で帰すことなんてできない。

この状況で

兄がすぐに帰ってきてくれて

本当に良かった。

父と兄は、

声やふとした受け答えが

とても似ている。

近くに兄がいてくれるだけで

母は強くいられるように見えた。

私には支えられない所で

兄が支えてくれてることが

すごく有難かった。

夜、私は自分の家に帰って

K君と

父と母の面会の話をした。

病院は車で10分

「俺も行ってくる」と

面会に行ってくれた。

もういいよ

頑張らなくていいよ

お父さん。

父の記録⑨鯛の酒蒸し

父は35歳の時

仕事中、大事故に合った

足に大きな怪我を負って

入院したことがある

生きるか

死ぬかの瀬戸際にいたと

大人になってから聞いた。

なんとか一命を取り留めた

その日から

ちょうど2倍の年月。

今70歳6ヶ月。



父の父、

つまり私の祖父は

早くに

祖母に旅立たれ

荒れに荒れて

お酒に溺れた。

その結果

アルコール中毒に加え認知症

感情の起伏も激しく

徘徊もする。

今ほど介護施設

充実しておらず

介護のほとんどを

母がやっていた

77歳になるまで10年以上

アルコール依存症以外

重篤な病気にもならず

母と父に苦労をかけまくって

老衰で死んだ。

そんな祖父を見ていた父は

・母より先に死ぬこと

・長患いはしたくないこと
(=家族に迷惑をかけたくない)

この2つを強く望んでいた。


引き続き1/28 22:00頃

太郎と父の面会後

母と実家に戻る。

実家に戻る途中

家にいる主人に太郎を任せた。

23時過ぎに

静岡から戻ってくる兄を

駅まで迎えに行くの間

調理前だった例の「鯛」を酒蒸しして

母と一緒に食べた。

臭みもなく

めちゃくちゃ美味しかった。

こんな夜に

こんなに美味しい鯛を食べれるなんて。



父の状況はかなり厳しい

血管はこれまでの食生活の

積み重ねもあり

動脈硬化でボロボロ

半分壊死した心臓

致死性の不整脈

心臓破裂

大動脈解離 加えて肺炎も併発中

先生から体の状況を聞くだけで

寿命なのかもしれない

そう思わざるを得なかった。

何も事情を知らなかったとはいえ

Aさんから頂くことになった

大きな鯛

こんな時に

鯛がやって来た

めでたいのかもしれん・・・・

天寿を全うする
祝いの鯛なのかもしれない

そんな考えが頭をよぎった

23:00過ぎ

実家の近所に住む

父の姉、つまり伯母さんを乗せて

駅まで兄を迎えに行った。

そのまま病院に向かう。

もういつどうなっても

おかしくないということだったので

真夜中でも

面会を許してくれた。

兄も伯母も

これが最後のつもりで

面会した。

面会が2回目ということもあり

最初の面会時より

2人とも冷静だった。

面会後

伯母を送って

兄と一緒に実家に戻った。

1/29 AM0:00過ぎ

母と兄と私で

残ってる鯛を食べた

この日は

獅子座の満月

まん丸な月を見ながら

獅子座生まれの父を想った。

父の記録⑧心臓破裂→大動脈解離

1月28日

AM10:00

主治医のI先生から電話。

電話が鳴ると

ドキドキする。

昨日から右足の血色が

異常に悪いとのこと。

恐らく

どこかで血管が詰まって



右足に血が流れてないだろうとのこと。

なので右足の血管に

カテーテルを入れます

との連絡だった。

よろしくお願いしますと伝え

電話を切る。

昼過ぎ

兄からのライン。

今日の23時頃、新幹線で戻ると。

少し安心した。

それから夕方まで

病院からは

なんの連絡もなく

家でお仕事。

急ぎの仕事を

終わらせた直後

こんな状況なことを

全く知らない友達Aさんから

連絡が来た。

「鯛釣ったんだけど、いらない?」

鯛!

全く目出たくない

こんな時に^^;笑

でも頂けるものは

ありがたく頂く性分の私。

釣りによく行くAさんは

家も近いので

夕方、取りに行かせてもらった。

鯛はとっても大きい上、

丁寧に臓物と鱗取りの

下処理をしてくれていた。

大きな大きな鯛が

私の手の中にやってきた。

なんでこんな時に?

どうゆう状況?笑

なんだかこの状況が笑えてきて

すぐに母に連絡をした。

「友達から鯛もらったよ、

今日、一緒に鯛食べへん?」

夜はお好み焼きにすると言っていたので

急遽取りやめ

兄も帰ってくるし

鯛を酒蒸しして

一緒にポン酢で食べることになった。

太郎のお迎えに行って

実家へ向かった。

刺身にするほど

器用に包丁は使えなかったので

全て酒蒸しすることに。

大鍋に鯛を入れて

調理開始!

その時、電話が鳴った。

PM6:30

主治医のI先生が

父の病状を説明したいとのことで

急遽病院まで来てほしいとのこと。

酒蒸し調理は取りやめ

すぐに病院に向かう。

ICU前到着後

面談室へ案内された。

少し待たされた後

先生が面談室にやってきた。

これまでの父の経過は

(↓すでに発症し終わった状態) 1/15 急性心筋梗塞(肺炎併発)

カテーテル手術

1/16 致死性不整脈 (危篤)

1/26 病状回復 (人工心肺エクモ取り外す)

意識回復後、心臓破裂

↓(10時間の緊急手術)

経過観察 人工心肺エクモで心臓と肺をサポート (いつ急変してもおかしくない)

↓(数日が山→持ち堪える)



1/28 右足の血色が悪い

カテーテル入れる

→血色戻る

腹部で大動脈解離(=血管が破れて出血)

処置がうまくいって

なんとか安定したものの

動脈硬化で血管が弱く

次、別の場所で

大動脈解離が起こったら

打つ手はない。

右足の血色が悪いため

色々と検査をした結果

左足付け根上部

おそらく腹部あたりで

大動脈解離が起こってるとのこと。

でも

それでも処置は成功。

先生曰く

入院してから今日まで

致死性不整脈

心臓破裂

大動脈解離

と3つも合併症が併発してるのに

それでも生きてるのは

奇跡

と言われた。

全国にある症例を調べても

同じような症例はなく

「日本初」とまで言われた。

こんな「日本初」は全然嬉しくないが

それでも

ここまで奇跡が起こってるから

なんとか助けたい

先生はそう言ってくれた。

先生のその気持ちが嬉しかった。

その後

太郎と一緒に父に面会。

本来なら

中学生以下の面会は

できないらしいのだけど

太郎と父が仲良かったと言うと

先生は面会を許してくれた。

母は、

昨日も会ったし

今の状況で会うのは辛いと

面会はしなかった。

太郎が最後に

元気だったじいじを見てから

初めて会う。

状況は理解できないかもしれないけど

会わせたかった。

いろんな機械に繋がれたじいじを見て

「いつもと違うおじいちゃん・・・」

これだけ異様な光景を見ると

流石に子供ながら

何か感じることがあるんだろう。

輸血で浮腫んだ手に触れて

「タッチ!これで良くなった!✨」

そう言ってくれた。

普段通りの無邪気な太郎を見て

胸がいっぱいになる。

これで良くなる

本当にそうなれば良い。

父の記録⑦兄、一旦戻る

1月27日

午前中

ひたすら掃除をした。

朝イチに

実家に行こうと思ったけど

あまりに家の中が

とっ散らかっていたのと

どうにもこうにも

空気が澱んでる気がして

窓を開けて

掃除と片付けに専念した。

空気を入れ替えておかないと

気分がどんどんネガティブになる。

母もそうだったのか

朝からおかんが掃除しまくってた、と

兄が言ってた。

同じだ。

きっと母も同じだったんだと思う。

家の中が綺麗になると

家の空気も軽くなる

自分の気持ちも軽くなる

本能的に知ってるんだろう。

うちの家は

日蓮系の宗教をやっている。

宗教と言っても

なんのことはない

自分で

先祖供養のお経を

仏壇に向かって読み上げる

お坊さんがやっていることを

家で個人でやるシンプルなもの。

父と母は夫婦で

この先祖供養を

ずっと一緒にやってきた

私も兄も少しかじっている。

こうゆうとき

「信仰心」というものが

支えになるということを

改めて実感した。

母が気丈で強くいられるのは

間違いなく

この「信仰心」の力が大きい。

父の回復の祈りを込めて

お経をあげる一方で

現実的なこともきちんと考える。

泣いて塞ぎ込むようなことはない。

「買い物に行くで!」と

一緒に近くのイオンに連れて行かれた。

こんな時に何で買い物?

不思議に思いながら

向かった先は

「喪服売り場」だった。

なんて現実的。

でも考えておかないといけない。

結婚する時

嫁入り道具として

買ってあげてなかったから

必要になるかもしれないから

と、服を選び始めた。

まじか。

呆れつつも、尊敬の念が起こる。

すごいな、この人^^;

いつだって母にはかなわない。

感情とは別の所で

常に冷静に物事を見る

こうゆうところが

母が母たる所以。

なぜだか

私には全く遺伝しなかった。

お言葉に甘えて

ありがたく一式購入してもらった。

でも後から思い出した。

以前、

母の友達Iさんの旦那さんが

心筋梗塞で倒れた時

喪服を買ったけど

旦那さんが回復して

結局使わなかったと

笑い話にしていた。

私と一緒に買いに行って

後から笑い話にできたら。

そうゆうの想いもあったのかもしれない。

でも現実的な母だから

やっぱり現実的なことを

考えていたはず。

母と実家に戻ってから

兄が一旦仕事のため

静岡に戻らなければならないので

駅まで送った。

いつどうなってもおかしくない

それでも

やらなければいけないことがある。

兄は仕事上

責任ある立場だけど

仕事の調整を充分にできないまま

急いで帰ってきてくれた。

その気持ちが本当に嬉しかった。

状況を理解してくれる

人情的な職場に恵まれていたけど

どうしても一度戻って

やらなくちゃいけない仕事がある

それをやってから

またすぐに戻るということになった。

父親がいつどうなるかわからない状況で

ここを離れるのは

本当に辛かったと思う。

もしかしたら・・・

いない間に急変したら・・・

お父さん

お兄ちゃんが戻ってくるまで

どうかお願い。

頑張って。

心の中で祈り続けた。